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長篠・設楽原の戦いとは

 

戦国時代の分岐点となる
壮絶な戦い

武田信玄の侵攻で武田家に従っていた奥平氏は、信玄の死後、徳川に再び従属した。これに怒った武田勝頼は、天正3年(1575)4月、奥平貞昌が守る長篠城を奪還すべく大軍を差し向け、長篠・設楽原の戦が開戦する。

この特集コース一覧

三河武士の鑑、
鳥居強右衛門の勇気

長篠城は500あまりの兵で何とか持ちこたえていたが、兵糧蔵を襲撃され窮地に陥る。そこで、鳥居強右衛門を使者として、岡崎城の家康に援軍を要請した。武田軍の監視を掻い潜り岡崎城に到着した強右衛門は、信長・家康の軍勢が救援に向かう準備を整えていることを知り、吉報を携え長篠城に引き返す。しかし、長篠城まであと一歩という所で武田軍に捕らえられてしまい、城に向かって「援軍は来ない」と叫ぶよう命令された。強右衛門はこれに従わず、援軍の到着は間近であることを城兵に伝えたため、磔にされた。

決戦の地・設楽原での
壮絶な戦い

鳥居強右衛門の勇気ある行動のおかげで、長篠城は援軍の到着まで持ちこたえることができた。設楽原に到着した織田・徳川連合軍は、馬防柵と鉄砲隊で武田軍の騎馬隊を迎え撃つ体制を整え、また武田軍も設楽原へ軍を進めた。そして、信長の命を受けた酒井忠次は、長篠城を救うため、長篠城を包囲する鳶ヶ巣山砦など5つの砦を後方から奇襲、勝頼の叔父・河窪信実らを討ち取り、攻め落とした。さらに有海原の武田支軍も討ち、設楽原に進んだ武田本隊の退路を脅かすことにも成功。こうして織田・徳川連合軍が設楽原決戦を制し、武田軍は甲斐に撤退する。この特集では、連合軍・武田軍それぞれの視点から史跡を巡る。

コース一覧

武田の包囲はどのような戦略で行われたのか?

三河の徳川軍のプライドを垣間見る

信長の戦法と、親の心境を垣間見る

決戦の地・設楽原。勝頼、最後の決断

長篠城救援のための第一歩となった、鳶ヶ巣山砦奇襲

名将達の最期。わずかな家臣とともに退却